精神の健康って

DV被害に合っている方は精神の自由を取り戻す必要があります。


人は誰でも自分のことは自分で決めてよいということ、
自分が抱く考えや感情は尊重されてよいものであり、
誰からも強制されることなく生きてよいのだという
そんな当たり前のことが、頭での理解ではなく、
身体の隅々に行き渡るように学ぶことが大事です。

ここでは精神の自由を取り戻すためにヒントになる言葉を紹介したいと思います。


ただ、注意していただきたいのは、
以下に述べることは、『加害者/被害者の関係』にある中で、加害者の変容を目的にしても意味をもたないというです。
基本的なこととして加害者の変容に対して被害者の「自分が変われば」というような努力ははっきり言って無駄で、
必要なことは、専門的継続的なアプローチ(例:加害者プログラム)だと言い切ってよいと実感しています    
今ここに 【ゲシュタルトの祈り】 『私は自分を大事にしていなかったんですね』 天竜寺法句集より
自己肯定・他者肯定(人を大事にするにはまず自分を大事に) アサーションとアイメッセージ    up コントローラをはずす 首絞め理論
「健康的という素敵な言い方」 全てのことは必要だから起きている・時は必ずくる 過去は全てなくてはならないもの 他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来
すべての感情の源は「期待」 全ての感情を大事にしてやり、感情に名前をつける 【幸せになるためのソフト】 優先順位
人には傷つく権利や失敗する権利がある バンドリー(境界線 加害行為と加害者自身を分けて考える 動きだした列車でも止めてよい、降りてよい
自由と対等 子どもは親がDVを脱することで学び直しができる 過敏に反応しすぎない 自分(と他人)に責任を持つ




今ここに
『今ここに』。 このHPの名前 HERE & NOW です。    
過去にとらわれるのではなく「今ここに」が大事。    
「今ここに」私が何を考えるのか、何をするのか、何をしたいのか、 そのことが何より大事なことです。
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ゲシュタルトの祈り
私のスーパーバイザーから紹介されたゲシュタルト心理学の祖であるパールスの詩です。

自分のことと自分以外の人との関係を言葉で適切に表現してあります。
みなさんに深く味わっていただけたらと思います。
   
【ゲシュタルトの祈り】/ゲシュタルト療法の創始者フレデリック・S・パールス    
私は私のことをする     
あなたはあなたのことをする    
私はあなたの期待に添うためにこの世に生きているのではない    
あなたは私の期待に添うためにこの世に生きているのではない    
あなたはあなた 私は私である    
しかしもし機会があって私たちが出会うことがあればそれはすばらしい    
もし出会うことがなくてもそれはいたしかたのないことである
 
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自分を大事にするということ
被害を受けている方は、加害者による様々な暴力・コントロールにより、自分は自分でいいのだという自尊の気持ちや自分のことは自分で決めてよいのだという自己決定権を失くしていっています。
被害の立場から抜け出すには、自己尊重の気持ちや自己決定権をを取り戻すことが大事です。
またそれこそが自分を大事にするということです。
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天竜寺法句集より
京都天竜寺パンフに記載されていた言葉です。
いかに「自分】が大切なのか端的に述べてあります。
   
おのれこそ おのれのよるべ    
おのれをおきて 誰によろべぞ    
よくととのえし おのれこそ    
まことえがたき よろべなり
   (原文のまま)
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自己肯定他者肯定(人を大事にするにはまず自分を大事に)
まずは簡単に。パターンとして【1.自己肯定・他者肯定】 、【2.自己肯定・他者否定】、【3.他者肯定・自己否定】、【4.他者否定・自己否定】があり ます。

一番健康的なのは【1】。
それ以外は「うーむ困ったもんだ」タイプ、ですが、最悪なのは【4】。
加害者は一見【2】のようにも見えますが、実は【4】であることが多いのではないでしょうか。
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アサーションとアイメッセージ
たとえば「適切な自己表現」というように訳されています。
人とのコミュニケーションの場において、どうすれば自分の思いや考えを相手に正確に伝えられるか、ということについて、「I(アイ・私)メッセージ」を使って表現するという手法です。
たとえば、気に入らなくて怒鳴るという場面をアサーティブに表現すると「私はあなたが○○するととっても不安になってどうしていいかわからなくなる。だからあなたに□□してほしいと思うのだけど、どうかな」となります。
自分の感情を言葉にし、自分の思いを言葉にし相手に渡す。
渡したあと相手がどう考えるかは相手の問題。
お互いにアサーティブな表現をすることで、緊張のない会話が生まれ、緊張のない関係を築けるのです。 また、「あなたが○○をしてくれれば、私は○○できるのに」というところを、「あなたが○○をしてくれると嬉しいけれど、私は○○と考えるのでそうします」という表現もアサーティブであり、自己決定を理解している言い回しといえます。

主体性をきちんと持つというのは、実は全ての責任を自分が負う、ということにつながります。これは大変なことです。こういう物の考え方に慣れていない人にとっては、習慣づけるのに結構長い時間もかかります。しかし、これが身につくことによって実はあらたな広い自由な世界も拡がるのです。
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コントローラをはずす
二人の間に力の差があるとき、強い力を持っている人は大きなコントローラを持っています。これがDVという行為になるわけですね。
でも力の弱い方も実はコントローラを持っているのです。
パートナーをどうにかして「変えよう」「変えるためにはどうしたらいいか」と、相手を変えようとするその気持ち自体が、コントローラーを持っているということなのです。
ただしこの被害者のコントローラではパートナーのDV行為をやめさせることはできませんので、結果むなしい努力で終わってしまうものですが。
ですから被害者は「もうパートナーに対し何もすることはない」と 自分に言い聞かせ、「相手がどうであれ、私自身がすべきことは何か」ということをしっかり考えることが大事です。
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【首絞め理論】
「つらい」「苦しい」「憎い」 「許せない」「こうするとこうなるからできない」「○○すべきである」「ねばならない」など の感情や考えは自分が維持しているということです。
自分で自分の首を絞めていることに気づければ、その手をはずすこともできるわけです。


日本語のネーミングは、早稲田大学文学部教授の越川房子先生(臨床心理学、 人格心理学)によるものです。唱えたのはEllisで、理論は『irrational blief(不合理な信念)』。

(自分の首を絞める「非理性的信念」と、それを再学習する「理性的信念」の対比表を下方 に掲載してあります。)

これは認知行動療法にでてくるものです。認知行動療法とは、原因を探るのではなく、その行動は何によって維持されているのかを考え、不幸にも強固に間違った考えを学習してしまったことに対し再学習させる療法です。

以下、越川先生に掲載についてご快諾をいただきましたのでご紹介したいと思います。

【参考資料:早稲田大学エクステンションセンター 「カウンセリング講座」
2002年5月21・28日『認知行動カウンセリング』早稲田大学 越川房子教授 配布資料】

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●Ellisの提唱したTIIを利用した非理性的な信念に対応する理性的な信念を示す表    
  TII(The Idea Inventory:Kassinove et al.1977)

       ※TIIを使用した理性的信念と非理性的信念の程度を測定する表は 【こちら】 から    
       ※下記の表の説明のもっと詳しい説明は 【こちら】 から
        (左のメニューの【付録】からも入れます)
   非理性的な信念 理性的な信念
@受容要求 皆から愛され受容されなければならない 人に愛されることと自分の人間的な価値とは別のものである
A自己期待 全ての点で優れていなければならない 成功と自分の本質的価値とは別のものである
B非難 悪いことをした人々は、厳しく罰しなければならない 非難と責任は別のものである
C欲求不満 全てのものごとが自分の思い通りに運ばなければならない 欲求不満は誰にでもあり、生きている限りさけられないものである
D情緒的無責任 自分の感情は外部刺激により統制されており、自分ではコントロールできないものである 不快な感情の強度とその維持には、自分自身の不合理な信念が関わっている
E不安 何かが危険で怖いことに思えたときは、我を忘れて不安に陥るのは当然だ 不安はこれからひどいことが起こるという予言ではなく、そのような場合にはどうするか考えようというサインである
F問題回避 障害物や責任のある仕事は逃げた方が楽である 困難や責任を回避することは、長い目で見た場合に有効な方策ではない
G依存 誰か、あるいは何かに頼らないとやっていけない 誰か(何か)に頼っていないと幸せになれない、ということはない
H過去の一般化 過去において人生に大きな影響を与えた出来事は、今に至ってもその人の感情や行動を決定するものである 過去の事実は変えられない。しかしその影響力は現在の努力で克服できる
I他人の問題へのとらわれ 他の人々への問題や障害のために、自分の感情がコントロールできないのは当然だ 他人の問題と自分の感情状態は別のものである
J完全主義 何でも完璧でなければならない 完全を求めて最善をつくそうと努めることと、完全でなければならないということとは、別のことである
健康的」という素敵な言い方
「そういう考え方は駄目よ」「そういう関係はおかしい」と 言われると嫌な気がします。でも「そういう考え方は健康的でないんじゃない」「そいういう関係は 健康的じゃないよね」ならどうでしょうか。

私はこの「健康的」ということばが大好きです。「不健康より健康が良いに決まっている」 から、ちょっと頑張ってみるか、という気にもなれるじゃありませんか。
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全てのことは必要だから起きている・時は必ず来る
みなさんも耳にされたことがあるかもしれませんね。
一見不合理なことにも必然性がある。
自分が今は動けなくても、いつか必ず動く時はくる。
過去に起きたことに自分で×をつけず、未来に起きることに過剰な不安をいだかず、自分の信じる明日に信念を持って向き合い、今の自分を大好きだと言える自分を作る。
頑張りましょう。
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過去は全てなくてはならないものである
というより、過去は消せないし、なくせないという現実があ ります。それをまず自分の底に据えます。そしてその土台をもって今いる自分を考えます。もちろん ポジティブにです。

うまく行かなかった過去を捨てたいと思う心は自己否定です。自分をごまかした り、自分にウソをつくことと同じです。それは健康的じゃあないですよね。

ともかく、ともかく、「いろいろあったけど、それもこれもぜーんぶあって、今の私がいる」。 今の私が嫌いなら、自分の好きな自分像に近づけるように頑張ろう。
自分に期待を持って、願いは必ずかなう、という信念を持って。
でもくたびれたら休んでもいいし、理想像を取り替えたっていい。ファジーに楽に。
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他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来
読んで字の如し。特に説明はいらないかと・・・。と書こうとしたのですが、この言葉の意味をしっかり理解し、自分の中にドンと据えるにも学びは必要かもしれません。。

「過去は変えられない」はタイムマシンでもなければ駄目なことは明々白日ですが、「他人は変えられる」 と思いがちです。世の中には「自分が変われば他人も変わる」という言葉がありますが、私はこの言葉 は「他人を変えるために自分が変わる」としたら意味が変わってきてしまうのではないかと思っています。

一般論として、他人が自分の思うように行かないとき、自分の中にも何か考え直す必要があるのではないかと思い、 まず自分を振り返り言動を変えようとする。その結果として周囲が変わってくるのだ、という ような理解の方が「思い込みの期待」をせずに済むと思います。

但し、【自分が変われば(結果として)他人が変わる】というのは、DV加害者・被害者 の関係には成立しません。

おおかたの被害者は【自分が変われば、いつか夫も変わってくれる】と考え賢明な努力を続けますが、 加害者は完全な従属を求めているのであって、被害者に感情や別の価値感がある以上(なくなることはあり ませんし、なくそうとする必要はありません!自分が自分の感情を持ち、価値感を持つということは当然な ことです!)それは絶対に無理ですよね。
ということは、加害者は被害者がどんなに自分を変えようと「変わらない」ということになります!!!
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すべての感情の源は「期待」

キーワードは「期待」。期待が満足させられたら「嬉しい」「楽しい」。
「期待」がかなわないと「がっかり」「悲しい」「寂しい」。
「期待」が裏切られたと思ったときは「怒り」「苦しい」。などなど。

マイナスの感情だって「自分の勝手な期待」の挙句なのに、人はあたかも他人が自分を満足させる べきだといわんばかりに、起きた感情に左右されてしまいます。
大事なことは、「マイナスの感情を持たないようにすることではなく」、「起きたマイナスの感情に ふりまわされない」ことです。
自分以外の相手への期待が自分を振り回していると感じたら、「ゲシュタルトの祈り」を思い出してください。。
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全ての感情を大事にしてやり、感情に名前をつけてやる
前項で全ての感情の源は期待だと述べましたが、感情は私たちにふんだんに与えられている大事なものです。
嬉しいときには心が浮き立ち、悲しいときには心が沈む。
その一方だけが大切で、片方は不要などと区別できるものではありません。
私たちは様々な感情を持ちます。是非それらの感情に名前をつけてみてください。
そうして、どうしてそういう感情が起きているのか考えてみてください。
これらの作業で、自分を知ることができます。

例えばマイナスの感情が起きたとき、それは自分が「悲しんでいるのか」「寂しいのか」「つらいのか」 「苦しいのか」「怒りなのか」「残念なのか」・・・と自分の状態を言葉で表してみましょう。 そして、それは自分のどういう「期待」が起こしているのかを考えます。

相手に「○○してほしいと願ったのにしてくれなかった」から「悔しかった」。書いてみるとわかると 思いますが、こういうのは、自分の期待を相手がかなえるべき、という自分の期待が自分を縛っているわけです。 また、相手には私の思いをかなえなければならない義務はないということも、また、しっかり自分の中に位置づけておいてください。

自分の感情に自分が翻弄されていると感じたときには、「いかんいかん。私は自分の期待を大きくしすぎてる」とか、場合によっては「ま、しょうがないよ。私がこんなにがっかりしてもさ。だってすごく期待したんだもん」と自分で自分を慰めてあげるのもいいかもです。
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【幸せになるためのソフト】
これは、佐藤愛子著『私の遺言』(新潮社)で紹介されている、佐藤さんの 『おそらくは最後の指導者となるに違いない師』(文中ヨリ)であると書かれている中川昌蔵氏の著書にあると紹介されて いるものです。
以下P.249から抜書きさせていただきます。

『中川氏の著書に「幸せになるためのソフト」という五箇条が記されている。
 「 今日一日、親切にしようと想う。
  今日一日、明るく朗らかにしようと想う。
  今日一日、謙虚にしようと想う。
  今日一日、素直になろうと想う。
  今日一日、感謝しようと想う。

これを紙に書き、いつも見える場所(トイレが最適という)に貼って毎日見ては心に染み込ませることが大事と いわれる。教訓カレンダーにあるようなそんな他愛ない言葉、と多くの人は思うだろう。実は私もそうだった。だが、 次につづく文章を読んだ時、私の中で何かがコトンと胸に落ちた。』
とあり、中川氏の言葉が続きます。

 【実行してはダメです。
  意識して実行すると失敗します。
  なぜかというとコンピューターというハードにソフトが不可欠なように、人間には肉体とい
  うハードがあり、そのハードにもソフトが不可欠なのです。親切というソフトを必要なので
  すが、ソフトをつくる前に人に親切にしたら失敗してしまうのです】  

「想う」という言葉、良いですね。良いイメージは良い結果を生むものだと私は信じています(*^_^*)。
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優先順位
困って何をどうしたらよいかわからなくなってしまったら、「優先順位」をつけましょう。
加害言動に追い込まれ、自分が自分でないような状態にあるのなら、自分を優先順位トップにしてもいいのです。
でも自分をトップにしようにも、小さいお子さんがいるとか、状況が許さないことも多いでしょう。
解決が難しいときには、専門家に相談することをお勧めします。
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人には傷つく権利や失敗する権利がある
【人は自分がしたいことをする権利もあるし、それによって場合によっては人を傷つけることもあるけど、それもまたいたしかたのないこと】と考えます。 傷つくことによって人は成長する機会を持つということもあり、それも大事なこと。だから傷つくも大事な権利だということです。
「失敗する権利がある」も同様ですね。
言わずもがなですが、相手を傷つけようとしての行為は×です。
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バンドリー(境界線)
自分と他人との境界線をどう引くかは大切なことです。
四角四面で状況に対応しないようなバリアを貼ったり、何でもかんでも人の言うことすることを受け入れるというのは、人間関係に問題を生じますね。
自分をしっかり持ち、自分と他人との境界線に弾力を持たせることができれば自分にとっても相手にとっても楽な人間関係が築けるのではないでしょうか。
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加害行為と加害者自身を分けて考える
加害者は加害行為をする人として生まれてきたのではありません。
ジェンダーや暴力容認の環境の中でDVの暴力的言動を自分に許す価値観を身に着けてしまったのです。
ですから憎むべきはその言動であり、その人を否定してはいけないことなのです。

被害者は「自分のせいでパートナーが暴力的言動をする」と思い込んでいる場合も多く、自分を責めるだけに終わってしまったり、「パートナーは悪くない」と庇う傾向もあります。
サポートするときは是非「あなたは悪くない。悪いのは加害行為であって、あなたに何の責任もない。パートナーの暴力行為を嫌っていい。」と言ってあげてください。それだけで、随分救いになるかもしれません。
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動きだした列車でも止めてよい、降りてよい
他人が「私」の人生に責任を持てるわけはなく、「私」の人生は「私」が決めていいということが根底にあります。何かを選択し、それに向って動きはじめたとき、しかもそれが周囲を含んで動いているようなときでも、途中で迷いが生じたり、方向転換をしたくなるときもあります。

そんなとき、フト頭によぎる言葉は「他人に迷惑がかかる」ということではないでしょうか。
よく考えてみましょう。
不安を解消できないまま走っていった先には不安が積み重なって動けない状態が待っている可能性も大きくあります。方向転換したくても人がどう思うかにとらわれて自分に思わしくない結果が生じても自分以外の誰もその結果を引き受けることはできません。
「他人に迷惑がかかるから」という言葉は実は勝手に自分で自分を縛ることばであり、また、それは一見人のことを考えているように聞こえるけれども、よーく考えてみると、自分が動けないのを、問題が起きたときそれを自分の責任で処理することを怖れる言葉でもあります。

すべての決定権は自分にあるということは、素晴らしい自由です。しかし自分で決定した言動に責任を持つ、という厳しさも同時に持つ大事なことです。
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自由と対等
加害者には無論本当の「対等」意識はありません。 彼らが言う「対等」は「条件つき」です。「対等」や「平等」には条件はつかないということ を加害者もそして被害者もきちんと理解をしていない、と言えるかもしれません。

加害者の中には、口では「男女平等」を掲げ、「女性の社会進出は喜ばしい」と言い、 「人間みな平等」などと場合によっては理屈を交えて立派に(もちろん皮肉です!)話す人 もいますが、妻に対しての実態はまるで違います。妻が社会活動をすることをバカにし、 「お互いの違いを認めて、お互いをいたわり合おう」という妻に「まずはお前が俺を満足 させてからだ」などといいます。また「対等にしてもらいたかったら、するだけ のことをしてから言え」などと言う言い方もします。

被害者はこのような、「絶対に無理な」言い方に対し「夫の言うことにも一理ある。自分にも いたらないところが沢山あるから、夫に自分を理解してもらうためには、まず自分が努力しなけれ ば・・・」などと考えます。
これは加害者が喜ぶ餌です。被害者がこう考える人間であるということで、加害者はますます そこを突いていき、自分を反省せず、被害者を追い込んでいくという構造が見えます。

さて、自由ということですが、支配されている被害者は無論自由がないわけですが、支配 している加害者にも本当の「精神の自由」はないといえます。加害者が「自分こそは被害者だ」 という意識を持っていることからも明らかなことです。
この「精神の自由」を自分のものにするということは、双方とも大変困難なことだと思います。
なぜなら双方とも「精神の自由」がどういうものか知らないからです。
また、自由には責任がともないます。これも学んでいかなければなりません。
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子どもは親がDVを脱することで学び直しができる
DVの環境にある子どもは加害行為から、『人を支配するためにはどうすればよいか』を学び、また被害者から『人は支配されたら逃げ出せない』ということを学んでしまいます。
だからこそ、どちらか一方でも気づいた人間がDVから抜け出すということは、子どもが『人は支配できない』『人を支配してはいけないのだ』ということを学びなおす機会につながるのです。
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過敏に反応しすぎない
精神的に追い込まれていると、自分の想像で最悪の場合を考えてしまいがちです。
万が一のことを考え逃げる準備や助けを求める方法を考えておくなど用心に越したことはありませんが、起きるかどうかわからないことに過剰に反応しすぎないことも実は大変重要です。
加害者はでまかせの脅し文句を使うことも多いのです。脅しかどうかを一旦考えるゆとりを持てるようになると、精神を落ち着かせることができます。
カウンセラーや弁護士にサポートしてもらうことも大きな意味を持つことが多いでしょう。
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自分(と他人)に責任を持つ
自分の言動の「責任」の所在は「自分」にあります。
それはつまり、「全ての私の言動は、私自身が決めたこと」ということです。

いろいろな人がいろいろなことを私に言います。「あっ、この意見いいな。あっちの 言うことももっともだ」と揺れることもあります。そういう中で、どの考えをとるか、 とったかは「自分の責任」なのです。

これは、「○○さんが言ったから、そうしたのに、うまく行かなかった」という、 他人に責任を負わせるような思いを持つことにはなりません。
「○○さんが言ったことを、【私が】良いと思ったから(アイメッセージ)、 そうしたのだけど、結果として、【私が】思うようにはならなかった(これもアイメッセージ)。 残念だけどしかたがない。次は別な方法でやってみよう(この辺は「ゲシュタルトの祈り」)」と考えるわけです。

また、自分がすることについて、相手を思いやるということもよくすることですが、 それも多面的に考えることが大事でしょう。
「相手のことを考えて、○○したんだけど・・・(喜ばれた、もあるでしょうし、迷惑 がられただってあるでしょう)」。

ここで考えなければならないのは、本当に自分が「相手の思い、考え」がわかるのか、 ということです。そんなこと判りっこないと思いませんか。
なんとなく判るということは 無論あるでしょうし、日常なら別にその程度のことは問題にもならないでしょう。

でも、何か大事な局面のときは、そういう思いは大失敗をする可能性もあります。 「相手がこう思うだろうから・・・」は相手に責任を押し付けています。勝手にそう思って 行動した自分の責任をどこかに押しやっています。そして、それは、相手を自分の想像 の像に押し込めることをし、また自分を自分で縛ってしまうことにつながります。

ギリギリのところでは「相手はどう考えるか(どうとるか)わからない。だから 悪くしたら、迷惑がられ、あげくに自分が恨まれることになるかもしれないし、ひょっと したら縁も切られることになるかもしれない。けれど、今、私は自分が大事だと思うことをしよう。だから、それによって自分に不都合がおきたら、私は甘んじてそれを受ける」と考えることもあるでしょう。

「人には傷つく権利や失敗する権利がある」という考え方と密接につながっていることでもありますね。
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